過去を美化しない

 

「思い出はきれいなままで、なんて意識的に作為的に守りだしたとたん、演技が入る。きれいなままにしておきたいということは、実際はもうそれがきれいな思い出ではなくなったことを頭のどこかで知っているからだ。知っているのに知らないふりをするなんて、その思い出にたいして逆に失礼。」

 

勝手にふるえてろ、の一節に震えた。

過去は変わらずきれいなものであり続けると信じてやまなかったその概念が覆された。

 

思い出ばかりを美化することはその思い出に対して失礼なのかもしれない。思い出に失礼なことをするのは私の中では許せない行為だった。

 

 

 

マフラーを手放せない時期に見つけた恋に、新生活の始まるタイミングで「君だけを好きになっても良いですか?」と聞いた。その恋は、「責任はがんばってとります」と、ひょろひょろの文字で返してくれた。刻印のようにまぶたの裏にこびりついて離れないその文字は、未だに決心を鈍らせて甘い夢を見せる。それは思い出に対し自分の手で失礼な態度を取らせ続けていた。

 

その恋を私は私なりに大事にしていたし、これからも大事にし続けるものだと当然のように思っていた。

 

ある時急に、好きを共有する輪の中で疎外感を感じ始めるようになった。理由は明確だと思っていたが、それが解決すれば終わると思っていた感情は時間が経てば経つほど複雑な絡まり方をしていった。そんなときはいつだって昔のことを思い出して、今この瞬間さえも過去になる事実に深呼吸をした。

 

考えて考えて考えて、夏の終わり頃には深呼吸にも疲れてきていた。同時に、恋心も伸びきってしまった。

 

ある公演終わりの夜、東京ドームの近くを歩いていると不意に涙が出た。大声で泣ければまだ救われたのに、一粒ずつしか出ない涙が周りの幸福と対比してより惨めに感じた。好んで恋をしてるのに、私は何をやってるんだろうと、と急に思った。

 

 

「いままでは頭が空白のときは記憶の奥からイチの記憶を引っ張り出してきて反芻し、ニヤニヤするのが習慣だったのに、もうどこを探してもかつてのイチの記憶は見つからなかった。昔の彼を呼び起そうとすると、再会した大人になったイチが出てきてしまう。そしてその記憶は私の胸をこづいて切なくさせるだけで、ニヤニヤさせはしない。」

 

 

楽しくない現実から目を背けた。こんなに好きなのに楽しくないなんてことがあるはずがないと思っていたからだ。未来で幸せになる準備はいつだって万全で、心の中でウェディングドレスを纏ってバージンロードを歩く覚悟を持って東京行きの飛行機に乗り込んでいた。

 

どんな会場だって、半券を何枚も持っていたって、幕が上がって顔を見た瞬間、全身に電流がビリビリ流れて脳の奥がバチバチと光り、毛穴が一気に開く。いつだって視界に入って3秒でお手上げの意味でのブーケトスだった。この子に出逢えて世界で1番幸せだ、を、幕が上がるたびに実感させてくれる子だった。その気持ちよりも哀しみが勝るようになっても、ドレスの破れたところを切り落としてベールを頭からかぶり直した。走り続けていた。こんな大切な気持ちが、哀しみなんかに負けるわけにはいかなかった。

 

東京ドームの近くを歩きながら、営業時間の終わったジェットコースターのレールを見上げた。彼を見ているときはいつもジェットコースターが落ちる瞬間のような浮遊感があったことを思うとまた少し泣けてきて、いつも現場で付けていたバレッタをカバンの奥底に投げ捨てた。ここ最近は、彼のことを考えているとずっと哀しかった。私にとってバレッタは、気持ちを信じる象徴となっていた。

 

電車のドアに映ったボロボロでボサボサな人が自分だと気づいたときに、刻印の魔法が消える音がした。

 

 

無関心ではいられない。何を知っても不安定に、不健康になる。きみを知らない世界に行きたい。過度な幸せがなくなったとしても、過度な哀しみや虚しさから少し距離を置きたい。

 

 

またバレッタを付ける日が来たら、そのときはとっておきのブーケを作って会場へ向かおう。過去を美化せず今を生きていく中で、過去と今と未来を幸せに繋げてくれる可能性が少しでも残ってるといい。

 

 

 

彼に書くために買った未使用のレターセットを雑誌の下から見つけたら、急に書きたくなった。

たぶんずっと好き、でも幸せじゃない。の答えは、これから来る冬の雪解け時期に見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。ただそのときはせめて、ボロボロではない自分で電車に乗り込んでいたい。

 

 

 

過去を美化しない。