君の中で希望を見た

 

俳優が演じる役の中に、自分が吸い込まれるという体験をした。

 

 

それは私が以前から気になっていた俳優さんの舞台で、だいぶ前から飛行機とチケットを抑え、その舞台のためだけに東京へ行った3日目の夜のことだった。

 

 

今回観たのは「春のめざめ」という白井晃さんが演出する「性と生」がテーマの舞台である。内容も演出も少し(いやかなり)過激で、覚悟はしていたものの最初の観劇の後は落ち込んで電車に乗りながらグッタリとしてしまうほどだった。電車を降りて見えたたくさんの電光表示にうんざりし、すれ違う人々との間に激しい時差を感じたりもした。

 

 

初見の感想は「救われない」だった。

最後、主人公であるメルヒオールは話の中では救われる。しかしそれを観た私は救われなかった。もし私がメルヒオールだったのなら、それまでの悲劇に苦しみ、モーリッツとの再会に縋るように手を伸ばしていると思う。そこでのメルヒオールの選択は、私にはできない。今考えてもできないと思う。なぜメルヒオールはあそこであの選択をできたのか。「どこへ連れて行かれるかわからない」仮面の騎士のことを、なぜ信じて歩めたのか。

 

 

吸い込まれる体験をしたのは、観劇のチケットがすべて半券になった時だった。

 

 

最後のシーン、階段を一段上がってモーリッツを見つめるメルヒオールを、忘れないように忘れないようにと脳裏に焼き付けようとしていたところから記憶が飛んでいる。というのも、いつのまにかそこに、メルヒオールしかいないような錯覚に陥っていたからだ。周りの観客も、他の演者も、自分のことすらも感じない。唯一そこいにるメルヒオールが話していること自体もわからない。自分の存在を感じないため、セリフが頭に入ってこないのだ。すると突然、メルヒオールの感情の中に自分が吸い込まれるような感覚になった。メルヒオールとひとつになったような感覚に陥ったのだ。

 

自分の呼吸がメルヒオールに支配される。メルヒオールの感情がジワジワと自分に沁みてくる。自分とメルヒオールの境目がわからない。生きているメルヒオールの体温を感じたような気がした。

 

今になって客観的にそう思えるのだが、その状態の時はなにが起こってるのかあまりわからず、記憶にも残っていない。呼吸の仕方を忘れたことすらも気づいていない。自分の意識が自分に向かず、メルヒオールの中に吸い込まれてしまった、としか表現できない感覚だった。

 

メルヒオールのキラキラの輝く瞳から涙が零れ落ちた瞬間、一気に身体中に感情を乗せた血が巡り、全身を暴れ回った。そこでようやく自分の感覚を取り戻した。

 

自分が自分に返ってきたとき、ひとりの自分はメルヒオールから溢れた涙から目が離せなかった。もうひとりの自分は、メルヒオールの身体の中で見た希望に震えていた。

 

 

もし私がメルヒオールだったら救われなかった。しかしメルヒオール自身があそこで見た希望を、吸い込まれたメルヒオールの中で見つけた。私には見つけられなかった光を、メルヒオールを通して見つけることができた。メルヒオールの中で初めて希望というものに触った。それは、私をも希望に包んでくれるものだった。

 

 

文字にすれば文字にするほど薄っぺらく、眠りにつけばつくほど、本当はそんな感覚ではなかったのではないか?と思う。それぐらい曖昧な感覚と記憶であり、覚えてるのは断片的な目での記憶と、自意識がどこかで飛んでいる中で頭の片隅で考えていたどうしようもないことだけである。たぶんもう一度この感覚を味わうことはできない。思い出すことも、たぶんできない。直後の感覚を吐き出した自分の文章から拾って、掻き集めてここに残している。

 

 

何年、いや何ヶ月か経てばまったくあの感覚は思い出せなくなるだろう。こんな体験をしたことすら忘れてしまうかもしれない。しかし、たしかにそこで私は、好きな役者さんの演じる役の中で、希望を見た。希望の中に包まれた。終わった後の身体と心が軽くなる感覚を、生のお芝居は教えてくれた。

 

 

メルヒオールの見つけた希望がたくさんの人の心を救っていることを、作者が描いたメルヒオールとモーリッツとヴェントラが知ってくれていますように。